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(有)建築研究室 DIG and PILE (DAP)
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 会社概要
   

会社名

(有)建築研究室 DIG and PILE (DAP)  
   

所在地

〒900-0033 沖縄県那覇市久米1丁目3番14号
   

電話番号

098-863-7091
   

FAX番号

098-863-7096
   

E-mail

maxi@ryukyu.ne.jp
   
設立年 1976年
   
代表者 真喜志 好一
   
 DAPの紹介


DAPの玄関先では、お茶の木の苗がすくすく育っています。(上写真)なぜでしょう?
それは、「建築や建設の業に携わっている者が、つくることと壊すことを繰り返すことは環境破壊につながってしまう。つくること壊すことだけではなく、守り育てていくことも実践しなければ」。そうした考えで建築の仕事に取り組んでいるからです。DAPの提案は、「建築・建設会社は社内に農林水産部をつくるべき」。DAPは玄関先で実践しているんです。

《DIG and PILE とは?》
<DIG(ディグ)>には、(場所を)掘る、(穴を)掘る、<PILE(パイル)>には(建造物の基礎として打ち込む)パイルという意味があります。「2つの単語を合わせて『汝の足元を掘れ』という意味を持たせた造語」と代表の真喜志さんは話します。

ゲーテは「汝の足元を掘れ。そこに泉が湧く」と言いました。汲んでも汲んでも尽きることのない興味の対象が身近に存在するという意味です。地域を見つめる、歴史を見つめる、そして産業を見つめる。面白く興味の尽きないことは、案外、身近なところに転がっているものです。

居住環境や都市と農村の関係のあり方、自然景観の保護、まちづくり、NPO活動など、DAPの興味の範囲はつきません。

また、どんな人でも最終目標は「幸せな人生を歩むこと」。幸せな人生を歩むためには、幸せは自分のすぐ近くにあることを自覚すればいいという捉え方もできます。
DAPは、与えられた仕事を天分と考え、身近なものを見つめ、仕事を続けています。建築において、<基礎>という工程はとても大事です。「足元からしっかりつくり、積み上げていく」。そうした意味も込められています。

 DAPの仕事


住宅建築・施設建築・公共建築
沖縄大学校舎(1,2,3号館)、沖縄キリスト教短期大学校舎、佐敷町文化センター(シュガーホール)、ゴスペル幼稚園、
佐喜眞美術館、壷屋焼物博物館など多数。


 PROFILE

   
氏名(ふりがな) 真喜志 好一 (まきし・よしかず)
   
生年月日 1943年生まれ
   
出身地 沖縄県那覇市
   
略歴 1968年 神戸大学大学院修士課程修了
同年神戸大学工学部助手
1972年 沖縄県開発庁沖縄総合事務局勤務
1976年 建築研究室DAP 設立
1984〜85年 琉球大学非常勤講師
   
主な受賞歴 1981年度日本建築士連合会作品展優秀賞
1991年度日本建築学会作品賞(沖縄キリスト教短期大学)
1996年度日本建築学会作品選奨(シュガーホール)
   
 紹 介


真喜志好一は沖縄の人である。沖縄の建築家は沖縄にいるということを先験的に背負っている。それは地域の建築家が地域にいることを背負っているという以上に、ではないだろうか。 沖縄の現代建築に頻繁に用いられるボキャブラリーとしては、赤瓦、コンクリートブロック、屏風(ヒンプン)、雨端(アマハジ)などがある。ヒンプン、アマハジは沖縄の戦前までの民家に多く用いられていたものである。沖縄の民家には門扉がなく、いつでも誰でも自由に出入りできるように、開放されている。その門の突き当たりに設けられた衝立(ついたて)のようなものがヒンプンである。アマハジは、前庭と主屋を結ぶ土庇であり、住居の内部と外部をつなぐ緩衝空間ともいえる。

赤瓦は、沖縄の典型的なボキャブラリーと考えられがちであるが、琉球王国時代にはその使用はかなり限定されており、一般に広まったのは昭和に入ってからである。コンクリートブロックは、知られるように、アメリカ軍によって導入されたもので、いまや沖縄で最も一般的に使用される材料である。 こういったボキャブラリーの是非に関しては、これまでにも様々な議論がある。最も批判されるのは、使いさえすればいいという発想である。更に、そういったものの使用が、表現の可能性を狭めるという議論である。逆に、沖縄産の材料である赤瓦等の使用は、生産のレベル、地域産材の利用という視点からみれば、推奨されるべきことでもある。ヒンプン、アマハジに関しても、それらが建築の空間構成と密接に結びついたボキャブラリーであるため、空間の展開等を表現する要素として評価してもよい。

とにかく、沖縄においては、非常に明快な空間構成・建築言語等があふれており、それらといかに向き合うかというテーマは非常に重要である。

ほかに、沖縄の人々の生活の中での信仰の意味にも焦点を当てねばならない。沖縄が「神」を売り渡した場合、沖縄の存在理由は音もなくくずれ落ちる、と言われるほどである。ニライ・カナイ、御嶽(ウタキ)、亀甲墓、フンシー(風水)。沖縄には未だ沖縄独自の信仰が、人々の生活と密着な関係を保ちながら、息づいているのである。そういった発想を建築の中にいかに盛り込むかということも、沖縄の建築家には求められている。

真喜志好一はまさにそのウチナンチュ(沖縄人)のコスモロジーを体感し表現する建築家である。

ヤポネシアの建築家・真喜志好一論 (ワキタ研究室ホームページより)

 
 真喜志好一の言説 〜沖縄からの発信〜
 
琉球弧からヤポネシアの建築家へ (南島・沖縄の建築文化より転載)
島豚賛へ (1983年1月20日・沖縄タイムス紙掲載)
真喜志好一へのインタビュー (SouthWeb)※外部リンク
セメントの経済学 (SouthWeb)※外部リンク
ヤンバルの森を守る意見陳述 (いつまで続く沖縄の赤い海 より)※外部リンク
・辺野古海上基地などの長期計画を探る (うるま島 ひやみかち 御万人ラジオ より)

 作品紹介 《佐喜眞美術館》

   
 
 1994年11月23日オープンした佐喜眞美術館は、宜野湾市にある普天間基地のフェンスを押し退け、米軍基地に食い込むような形で建っている。
  それは、オーナーである佐喜眞道夫氏が、米軍との契約期限が切れる1992年、別に所有する軍用地の再契約と引き替えに返還させたものであり、粘り強い交渉を続けた末に勝ち取ったものであった。
  佐喜眞氏が美術館建設に踏み切ったのは、「沖縄の絵は沖縄にあるのが一番いい」という夫婦の願いにかかわらず、受入先が決まらずにいる二人の姿をみたからである。
  それは、針灸師として東京で生活していた佐喜眞さんが、針灸で俊さんの目の治療を申し出てから続いていた交流の末の決断であった。しかし、建設用地の確保、米軍や役所との交渉と、美術館建設には数々の難問が待ち構えており、ねばり強く交渉する間に7年の年月がかかってしまうことになった。そして、1994年11月23日ようやくオープンにこぎ着けたのである。それは、法律家であり沖縄民俗学者であった佐喜眞興英を祖父に持つ氏とその家族を、これまで暮らすことなく「片思い」していた沖縄に定住させることを決断させ、新たな歴史を刻む旅の始まりともいえる。
  美術館の設計は、佐喜眞館長と一緒に建設用地を探し歩くことから関わった真喜志好一氏。彼は、コンクリート打ちっぱなしの美術館の中心線が、6月23日の「慰霊の日」に沈む夕陽を指すようにすることを提案し、屋上からその夕陽が眺められるように設計した。
  同じ敷地内には、築後280年になるという佐喜眞家代々の巨大な亀甲墓(亀の甲羅に似た沖縄独特の墓)があり、「歴史的に厳しい場所であるがゆえに、静かにものを想う空間をつくりたい」という佐喜眞館長の想いを満たすかのように美術館を見守っている。そのせいか、すぐ近くを米軍ヘリが爆音をたてて飛び交っているにもかかわらず、あたりの空気は不思議な安らぎに満ちているのである。
  1995年には、国連出版局刊行の「世界の平和博物館」に、沖縄県立博物館、ひめゆり平和祈念資料館とともに掲載された
 
 
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