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禅の鈴木大拙氏がニューヨークに滞在していたころの感想の一説に「こんなところでは少しの雨がふったり、吹いたりしても室の中では何もわからぬ。3階(自分の居た処)の窓から外を見ていると、雨風の世界と自分とは何等の関係もないように感じられた。自分は外界と没交渉な室の中、外界は勝手次第に荒れようが、日がさそうが彼は彼、我は我。どうもこんな生活には馴れられそうもない。」(鈴木大拙選集、第26巻)というのがある。
元来、ヨーロッパ の建築は所謂「壁の建築」であった。それは石あるいはレンガ等でガッシリと積み上げられていった壁によって囲まれた空間の建築であった。壁に穿たれた穴(出入口)による以外、外界との交流を絶った「彼は彼、我は我」の世界である。
「日本で春雨がしとしととふる頃、書斎からながめていると、天地一ぱいの雨、そうしてその音は「虚堂雨滴声」である。雨の世界と書斎の我と一つのものになる。何だかここに深いものが味わわれる。この味は永く東洋人の心の中に遺しておきたい。」(鈴木大拙選集第26巻)
日本建築の歩みは結局において建築と自然との融合発展の歴史とも見られる。修学院離宮などを訪れる人達は、その上の茶屋からの雄大な景観に魅せられる。例のブルーノ・タウトも『日本美の再発見』の中で、「私は御茶屋の前室から、池のある庭苑を見おろし、またその背景としてなごやかに連互する京都の山々を眺めた。庭園とこれらの山々とは、渾然たるいったいをなしているのである」と記している。その背景をなすはるか遠くの峰々までをも、その司会にとり込んだ、この見事な「借景」に感嘆させられるのである。
このように庭やその背後の山々に展開される新緑・紅葉・雪景等々の変化の様が、室内に伝わり、四季おりおりの気分を作り出してくれる時、室と庭とはもはや対立するものではなく、両者は一体となって互に流動する空間を共有するのである。これこそ建築と外延的な空間とのとりなす見事な演出である。実にこの内部空間と外部空間とが、このように互に融合するところに日本建築の特色があると言われる。
さて、ここらで表題の雨端に入ることにする。沖縄民家の面白さの一つも、内部空間と外部空間とが交流する中間地帯の雨端にあるのである。ところで雨端は沖縄特有の建築様式であるかというと、必ずしもそうでない。雨端は土庇(つちびさし)とか捨て庇と呼ばれ、茶室建築や数奇屋建築、民家等にも使われているのである(勿論沖縄の民家ほどではないが)。
一般的に日本建築の美しさはその屋根にあるといわれるが、その屋根を一段とひきたたせるのが庇である。 深い庇はヨーロッパ建築に対する日本建築の特異性の一つとなっているのである。その庇を更に深くし、それを独立性をたてて支えたのが土庇即ちわれわれの言う雨端である。
実際をあげれば、妙喜庵待庵(京都)には軽快な雨端(土庇)があり、そこから躙口(にじりぐち)に入るようになっている。この形式の雨端が茶室建築には多く使用されているようである。また、修学院離宮隣雲亭にも同様な例が見られるし、唐招提寺前面の吹放ち
列柱も結局は雨端である。変わったところでは、雪国の民家で見られる軒から長く張り出された庇下の通路「ガンギ」もその一種である。
例を更に外国に求めるなら、18世紀後半イギリスに起こったピクチャレスクの建築に愛用されたベランダがある。このピクチャレスクの広々としたベランダが、長崎市のグラバー、リンガーの両邸に見られる(桐敷真次郎「明治の建築」)。
もともと日本ではガラスの発達をみず、建築材料として使われなかったところから、横なぐりの風雨を防ぐためには、庇を深くする必要があったのであり、梅雨どきの蒸し暑さを凌ぐためにも、やはり雨戸を開放したのである。また、直射日光をさえぎるには深い庇が最も有効な建築的手段だったのである。
琉歌に、
夏のまひるまや nachinu mafiruma ya
かん暑さあもの kan achisa amunu
すださわないとまいて shidasa wane tumeti
遊びぼしやの ashibi busanu
とあるように、雨端もこの亜熱帯の長い夏への建築的な解決策であった。
屋慶名こはでさの yakina kuwadisanu
下かげにたよて sita kazini tayuri
夏やすだすだと nachinu shida shidatu
遊びぼしゃぬ ashibi bushanu
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木陰のように、家の周囲に日かげをつくり、地面からの輻射(ふくしゃ)、つまり「ほてり」を遮り、さらに生の光(直射日光)が室内にさしこむのを濾過(ろか)してやわらかな光を室内に導入してくれるのが雨端である。日本のどの地方よりも、沖縄において特にこの雨端の著しい普及発展をみたのは、実に防暑作用(断熱作用)と光の濾過作用に求められるのではないかと考えられるのである。
もちろん、雨端をめぐらせば室内はその分だけ外界から後退するため、それだけ暗くなる。しかし輻射熱を光線とは一緒で、明るすぎるということは同時に熱を入れる。だから明るいところは原則的に暑く、薄暗いところは輻射熱がなく涼しいわけである。
八重山石垣市大川の石堂孫徳氏の住宅は赤瓦葺きで現状はだいぶいたんでいるようであるが、その雨端は、私が見たうちでは最も面白いものであり、雨端柱から3尺の雨端がめぐらされ、その次に3尺の縁側が張られている。雨戸は縁側の内側、つまり雨端の柱から6尺の庇をとって雨端や縁側を設けたこの建築のゆったりとした様は、余裕を失った「無駄のない」機能一点ばりの現代建築への一服の清涼剤である。
日本建築の専売特許であった深い庇を現代建築に、さまざまな角度からふんだんに作って見せてくれたのがアメリカの建築家フランク・ロイド・ライトであった。また現在、沖縄の建築家の間に、この雨端を新しい視点から解釈しようとする動きがある。
先に行われた那覇市公会堂当選案には、そのダイナミックな試みが見られるのである。
−「研究余滴」(球陽研究会発行、1968年3月19日、第12号)より |
<追 録>
沖縄の民家には門という概念はあっても、玄関という概念がない。その代わり室内と庭の境界に当たる庇部分を支える柱が作り出す“天端(アマハジ)”の空間が存在する。それは、内地でいう濡れ縁ではない。天端とは庶民、貴族を問わず日常生活の一部分が、天空の端に常に接していることを表している。天と地を切り裂くものであり、内と外を「裂く」ものでもあり、同時に二つの領域を同化させてしまう力を持った、多様に使われる「空間」といえる。
−丸山欣也「カゲを切り裂く別柱の軸」
(『建築文化』、1977年11月号、特集=象グループ、沖縄の仕事)所収
全文:親泊元高著「念念録」(1979年9月発行)より
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